分裂勘違い君劇場の別館

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なぜ、ヨッピーさんの記事はタイトルにPRを入れなくても受け入れられてきたのか?

PR無表記の広告記事が邪悪なのは、「広告を記事だと誤認させて、読者の時間とギガを奪う」からです。
しかし、「コンテンツ性の高い広告記事」の場合、普通に「記事コンテンツです」って言っても問題ないくらいにコンテンツ性があるんなら、「記事コンテンツのように見える」ことが、「誤認させていることになる」と言い切れるでしょうか?「記事だと思ってクリックしたら、(広告にもなってるけど)普通に記事として楽しめた」であるなら、それって「誤認」なんでしょうか?

もちろん、その記事広告が「表示位置」を金で買っている場合、だれのどんな記事広告であろうと、必ず「PR」を入れないと、「その記事が、その面白さによってその位置に表示された」と読者に誤認させることになります。

しかし、「ヨッピーさんの広告記事がはてなのホッテントリに上がってくる」というような場合、ここがだんだんグレーになってくる気がするのです。
なぜなら、ヨッピーさんは、はてなに広告料を支払ってその表示位置を買ったわけではないからです。少なくとも、その点については、「誤認」などはさせていません。

ただ、広告であるにも関わらず、記事中で広告である旨が一切わからないように記事にするとしたら、別の意味で「誤認」させているでしょう。広告なのにもかかわらず広告ではないと誤認させているわけです。
しかし、ヨッピーさんの記事の場合、記事を読めば、すぐに広告であるということがわかるようになっています。

私が気になっているのは、ヨッピーさんの広告記事のタイトルにまで「PR」を入れるのは、逆の意味で「誤認」を引き起こしていないかな、という点です。
むしろ広告でない一般記事以上に、コンテンツ性の高い記事なのにもかかわらず、ヨッピーさんをよく知らない多くの人々が、「コンテンツじゃなくて、ただの広告でしょ」と誤認してしまったりしないでしょうか。もしそうだとすれば、本当にそれはフェアだと言えるんだろうか?という疑問がわきます。

ある特定の企業からお金をもらってその企業を取材させてもらってコンテンツ性の高いテレビ番組を作成したら、そのテレビ番組は「広告です」と画面の下に表示し続けなければならないのでしょうか。

「コンテンツ性が3で広告性97」という記事と、「コンテンツ性が80で広告性が20」という記事は、どっちもタイトルに「PR」とつけるのが、フェアなんでしょうか?

もちろん、「ヨッピーさんの記事は面白いから、タイトルにPRを入れなくても許される」などという雑な主張をするつもりは毛頭ありませんが、すべての広告記事を十把一からげにして「全ての広告記事は、記事タイトルにPRが入っていなければ誤認を引き起こす」という主張って、雑だなーと感じてしまうのです。

そして、誤認を引き起こすかどうかは、純粋に「タイトルにPRが入っているかどうか?」という「形式のみ」によって判定するのが正しいのか?ということが論点としてあるかと思います。
たとえば「きみ、美人だね!」と言うのがセクハラかどうかは、純粋にその文言だけでは決まりません。真道幸路朗のような爽やかなイケメンの先輩が言ったらセクハラにならなくても、キモいおっさん上司が言ったらセクハラになったりします。誤認を引き起こすかどうかの判定にも、このような文脈依存性はないのでしょうか?PR表記問題は、純粋に形式のみによって倫理的な判定が可能なのでしょうか?

なぜ、ヨッピーさんの記事はタイトルにPRを入れなくても今まで受け入れられてきたのか?というと、人々の倫理的判断が、「記事タイトルにPR表記があるかどうか?」という「純粋な形式」だけでは決まらないからではないでしょうか?

もちろん、法律で「広告記事では、タイトルにPR表記がなければならない」と決まっているなら、それは「形式のみ」で決まってくる可能性はあると思います。しかし、法的な是非ではなく、倫理的な是非を問うのであれば、「形式のみで正邪の判定はできる」という主張は、どうも粗雑な感じがするのです。

もうちょっと何か、しっくりくる落とし所はないものなのでしょうか。