ふろむだ@分裂勘違い君劇場

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今までの人生で、仕事でも生活でも、役立った本の圧倒的No.1は哲学の本だった

哲学は、「役に立つこと」を目的としない学問だ。
「世の中を良くするかどうか?」「人を幸せにするかどうか?」「文化を豊かにするか?」「仕事に役立つかどうか?」「生活に役立つかどうか?」と、哲学的な価値は、一切関係がない。
たとえ世の中を悪くするような哲学であっても、人を不幸にする哲学であっても、社会的に有害であっても、哲学的に優れていることは、いくらでもありうる。
ましてや、人格的に優れていることが哲学者の条件であるかのように言うのは、噴飯物だ。哲学者とは、世間的な意味で尊敬できる人間のことでは、決してない。

にもかかわらず、実際問題として、仕事においても、生活においても、人生のあらゆる場面を総合して、役に立った本の圧倒的No.1は、哲学の本だった。

 


(1)哲学は金儲けにものすごく役立つ。

金儲けをするには、自分一人であくせく働くのは効率が悪い。金儲けには、チームプレーが欠かせない。

ただし、どんな人間でもチームに引き入れればいいというものではない。やはり、優秀な人をチームに入れたほうが、はるかに効率よく稼げる。

しかし、そう簡単に優秀な人間はチームに入ってもらえない。
優秀な人間は引く手あまただからだ。たくさんの面白そうな会社がその人間にオファーをしている。

そういう中を勝ち抜いて、優秀な人間を口説き落とし、自社に来てもらう必要がある。
この「口説き落とし」に、哲学は、ものすごいパワーを発揮する。
ビジネス、企画、マーケティング、エンジニアリング、広報、経営等のさまざまな課題を、哲学特有の思考パターンで切り込み、捉え直してみせると、優秀な人間の多くは、驚くほど食いついてくる。

世の中のほとんどの人間は、哲学特有の思考パターンに免疫がない。哲学童貞だ。
仕事能力の非常に高い人間であっても、これは同じだ。
知力の高い人間ほど、ビジネス課題の哲学による捉え直しに対する感受性が強く、ぐいぐい引き込まれる傾向にある。
女体に好奇心旺盛な童貞中学生のように、興味津々になるのだ。

また、ビジネスを成功させるには、社員の士気を高めることが欠かせない。
哲学特有の思考パターンを使って「なぜ、その仕事をやるのか?」を紐解いて見せると、社員の士気はどんどん上がっていく。哲学に免疫のない哲学童貞たちは、なにかものすごく深遠な真実に触れたような気分になるからだ。自分のやっている仕事に、こんなにも深い意味があったのだと、感じいるのだ。
しかし実際は、これは単なる思考の錯覚だ。猛烈に頭の悪そうな同僚だって、何も考えてなさそうな幼児だって、カップメンだって、そのへんの石っころだって、トイレットペーパーだって、世の中の大抵のものは、まともに考え抜けば、ものすごく深い。その深さに気づかずにほとんどの人は日々生活しているというだけのことであり、深いのは、自分の担当している仕事に限った話じゃない。
人間は「その仕事にどんな意味があるのか?」が分からないと、モチベーションが上がらない生き物だ。そして、何事につけ、「それにどんな意味があるのか?」をこれ以上ないほど深く追求するのは、哲学にとっては、朝飯前すぎる。それを「哲学」という言葉で呼ぶことすら、不適切なほどに。

また、社員全員のベクトルを揃えてまとめ上げるのにはビジョンが効果的だが、このビジョンを作るのにも、哲学は大きな威力を発揮する。
ほとんどの人間は哲学的思考に免疫がないので、呆れるほど初歩的な哲学的思考を、ほんのスパイスとして使うだけで、ビジョンが社員を惹きつけ、まとめ上げるる力が一気に増す。

 


(2)哲学は、人生のROI(生産性)を最大化するのに、ものすごく役に立つ。

「生産性をあげる」というのは、コストあたりの価値生産量を最大化することだ。
たいして価値の無いもののためにたくさんのコスト(=時間とお金)を使い、人生を浪費してしまうと、人生はどんどん貧しくなっていく。
「気がついたら、ずいぶんと無駄なことをしてたくさんの時間を過ごしてしまった」という経験はないだろうか?
その大きな原因の一つは、何に価値があり、何に価値がないのかを、十分に考えぬいていなかったからではないだろうか?
そして、何に価値があり、何に価値がないのかを見極めるのに、哲学はものすごく役に立つ。
「そもそも『価値』とは何か?」「そもそも『意味』とは何か?」「【そもそも『価値』とは何か?】と問うことに意味はあるか?あるとすればどのような意味があるのか?なぜ、私はそれを問おうと思うのか?」などと問うことから始める。ここから思考を積み上げていって、今、自分がやっていることの意味と価値、これからやろうとすることの意味と価値に、日々、思いを巡らせながら生きる。そうすることで、人生の豊かさを深く感じ取ることができる。自分にとって、意味のないもの、価値の無いものに使う時間を減らすことができる。自分にとって、意味の有ることにだけ時間を使うことができる。
むしろ、哲学抜きに、人生のコストパフォーマンスやROIをどうやって上げればいいのかがよく分からないほどだ。
広告のROIマネージメントには計測が必須だ。その広告にどのような効果があるのか計測できないまま広告を出稿すると、結果として効果の無い広告に大量のお金を払うことになってしまいがちだ。
人生において、自分がRだと思っているものがほんとにRなのかを徹底的に考えぬかずに、どうやって人生のROIを上げればいいのだろうか?


(3)哲学は、それ自体が、個人にとって100億円分以上の価値になりうる。

多くのものごとの、人生における価値は、金額換算できる。
「一生インターネットを使えなくなるが、十億円もらえる」
という取引があったら、あなたは応じるだろうか?
それに応じないという人がいたとすると、その人間にとって、インターネットは十億円以上の価値があるということだ。

インターネットをろくに使ったことがない人は、インターネットなどより十億円の方を選ぶだろうが、インターネットの豊かさにどっぷり浸かって生きている人の中には、インターネットの方を選ぶ人も多いのではないだろうか。

同様に、「今までに哲学の本や議論から得た知識・知恵をあなたの中からすべて消し去り、かつ、一生哲学の知識には触れることができなくなるが、その対価として100億円もらえる」という取引があったら、あなたは応じるだろうか?

私は応じない。
たとえ100億円もらって贅沢三昧の一生を送れたとしても、哲学のない人生の、なんと浅く、なんとつまらないことか。そう感じてしまう。

これも、インターネットの場合と同じで、哲学をほとんど人生に取り入れてない人は100億円の方を選ぶだろうが、哲学がもたらす豊かさにどっぷり浸かって生きている人にとっては、その豊かさが100億円を凌駕することは、珍しくないだろう。

「哲学というのは一種の病気であり、そんなものがなくても普通の人は十分に幸せになれる」という意見があるのは知っている。
しかし、私の幼少時からの疑問 --- 『私』とは何なのか? 『世界』とは何なのか? 『意味』とは何なのか?『価値』とは何なのか? 『正義』とは何なのか?『美しい』とはどういうことなのか?『存在』とは何なのか? 『時間』とは何なのか? それらの疑問に、ほんとうの意味で真正面から答えようとしてくれたのは、哲学だけだった。一生にわたってこれらの疑問とともに生き続けるというのが病気であるというのなら、私は病気なのだろう。しかし、これを病気だと定義して思考停止してしまうのが『健全』な思考と言えるのだろうか?
実際、多くの人間は、自分の仕事に『意味』を見いだせるかどうかで、その仕事の楽しさが大きく違ってくる。そして、仕事の楽しさは、人生の豊かさを大きく左右する。
『意味』とは何かをきちんと考えぬいた方が、はるかに自分の仕事に意味を見出しやすくなることを思えば、むしろ「『意味』とは何か?」というところから問うのは、『病気』というよりもむしろ、『健全』なのではあるまいか?

 


役に立つことが哲学の目的ではないし、それを目的にしたら、もはやそれは哲学ではない。
真実が不道徳であるとき、その真実を指摘しないのが人格者で、指摘するのが哲学者だ。
だから、人格者の言葉は社会の役に立つが、哲学者の言葉は社会の役に立たないことが多い。
しかし、だからこそ、人格者の言葉は信用ならないし、哲学者の言葉のほうが信用できる。
ここには、社会と個人の利害対立の構図が潜んでいる。
それが不道徳であるかどうかに関係なく、人は「ほんとうのところは、どうなのか?」を知りたがるものだ。しかし、社会を維持するためには、不道徳な真実は隠蔽されなければならない。人格者とは、この隠蔽工作に加担する嘘つきどものことだ。
結果として哲学が役立つのは、「ほんとうのところは、どうなのか?」を人々にこっそり耳打ちすることで、その人間を味方に引き入れることができるからだ。それは、耳打ちされた個人にとっては「役に立つ」が、社会全体にとっては「役に立つ」とは限らない。

このような形で哲学は『役に立つ』が、それは哲学者たちの感知するところではない。それが人類に災厄をもたらすか、それとも健やかなる未来社会の建設に資するか、そんなことは、哲学者たちにとっては雑念でしかない。そんなことを気にして掘り下げられた哲学は、もはや哲学ではない。

我々はただ、哲学と、そういうものとして、向き合うだけだ。