ふろむだ@分裂勘違い君劇場

分裂勘違い君劇場( https://www.furomuda.com/ )の別館です。

「ふろむだ」名義で本を執筆中です

とあるヒットメーカーの編集者の方に担当についてもらって、本を執筆中です。

以下のような本にしようと、日々、悪戦苦闘中です。

 


「読者個人の切実な問題」についての本にする
一般論なんて、どーでもいいんだ。
私が知りたいのは、私のことなんだ。私の人生をどうすべきかってことなんだ。
みんな、そうでしょ?

 


「読みやすい」「面白い」「役に立つ」の3つを同時に満たす
役に立たなければ、読む必要ないし、
面白くなければ読む気にならないし、
読みづらければ、頭に入らない。
どれが一つ欠けても、ダメなんだ。

 


「若い頃の自分がこれを知っていればっ」って悔しく思ってることを伝えることに集中
「若い頃にこれを知っていれば、自分の人生は、もっとずっと良いものになっただろうにっ」と、悔しく思っていることを伝える。
そこを伝えることに集中し、全力を尽くす。

 


誰も説明できなかった重大な真実を説明する
「それを知ると、人生が大きく変わってしまうような、きわめて重要な真実」なんだけど、それを普通の人でも分かるように説明するのは、極めて困難で、ほとんど誰も説明に成功していないっていうものがある。ちゃんと、十分に科学的な裏付けが蓄積されているものなんだけど。
無謀にも、この本では、その説明に挑戦する。
究極にわかりやすい図、脳を直撃する図、直感的にズドンと来る図と文章を、とことんまで極めて、
僕の「説明力」の限界に挑む。

 


ブログで書くことが不可能なことを書く
それを表現するのに「大量の図+10万字」を書く以外に方法がないものを書く。
すなわち、分割も、省略も、圧縮も不可能なものを書く。
分割できるんなら、分割して、複数のブログ記事にすればいい。
省略や圧縮ができるんなら、それもブログ記事にすればいい。
それらが、どれも不可能だから、本で書くしかない。
そういうものを書いている。

 


「きれいごと」でも「建前」でもない「身も蓋もない『ほんとう』」を書く
「きれいごと」や「たてまえ」ってのは、ようはウソだ。
政治的に正しいウソだ。
「道徳的に正しいウソ」ではなく、「身もふたもない『ほんとう』」を書く。

 


「人々の読みたがるウソ」は書かないが、「人々の読みたがるもの」を書く
世の中に溢れている「『人々を勇気づける真実』のふりをしたウソ」や、「『人々を気持ちよくさせる真実』のふりをしたウソ」は書かない。
「ウソでもいいから、○○と言って!」って気持ちは分かりますが、ウソでつくりだした安心・自信・勇気ってのは、麻薬みたいなもんで、結局人生のクオリティは上がらないですよ。
でも、「ただひたすら過酷な現実を直視するだけの希望のない本」なんて読みたくないですよね?
「読むとやる気が漲ってくる本」を読みたいんでしょ?
しかし、「自分をごまかさず、現実を直視しながら、やる気が漲ってくる方法」なんていう虫の良いものがあるのか?

それは読んでからのお楽しみ!
 


テーマは「やりたいことをやる」と「仕事」の関係

『「好きを仕事に」という欺瞞に騙されず、心の底から気持ちよく好きなことをやる方法』という記事で、書きたかったけど書かけなかったことを書く。

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20171114/p1

この記事は主に「ギリ一致タイプ」「ギリ不一致タイプ」「不一致タイプ」の読者を想定して書いてあるんだけど、

今書いている本は、「不在タイプ」も、想定に加えている。

また、『「好きな仕事」をしているんだけど、それが「嫌な仕事」でもあるような人』も想定読者にしている。

f:id:fromdusktildawn:20180117102332p:plain

「二兎を追う者は一兎をも得ず」になるリスクはあるが、ターゲットを絞り込みすぎて、具体的になりすぎると、浅くて枝葉末節っぽくなりすぎる。

もちろん、普遍性を追求すると抽象的になりすぎるリスクはあるが、そもそも、書きたいことの核心が、より普遍性をもったことなんだから、そこはしょうがない。

本質的であっても具体性がないと、ただの抽象論になってしまうし、

具体性があっても本質的じゃないと、浅い話になってしまう。

あくまで、「本質的でかつ具体的」なものを書くことにこだわる。

「本質的」と「具体的」の積集合の部分こそが、私の書きたいことで、読者の読みたいことだと、信じるからだ。

 

よろしくお願いします!