「哲学をやる気はないけど、哲学ってこういうもんだろ」と思ってる方によく見られる誤解を、哲学者を巻き込んだネット上のとある騒動を事例に、解説してみたいと思います。
では、さっそく、本題に入ります。
「永井均がトランスヘイトを行おうとしている」という趣旨のツイートを槇野沙央理氏がしています。
私はこのように、「影響力のある哲学者が、元教え子を焚きつけて、トランスヘイトを行おうとしている」ことに危機感を抱き、先日のポストを行いました。
— 槇野 沙央理/Saori Makino (@saoriqing) 2023年12月29日
これに対して、永井均氏は以下のようにレスしています。
これは妄想でしょう。なぜ私が誰かを「焚きつけて」トランスヘイトなどを行う必要がありましょうか。そういう種類の関心は全くありません。ツイッターを読まれるだけでもわかると思いますが、私の関心事はジェンダーに関して「も」成り立つ自認と同一性の関係の問題で、それを議論したいだけです。 https://t.co/9CeUzvQu5Q
— 永井均 (@hitoshinagai1) 2023年12月29日
これに対して、font-da氏は『キリンが逆立ちしたピアス』というブログの『永井均の発言について』という記事において、以下のように批判しています。
この永井の発言から読み取れるのは、トランスジェンダーの問題を、脱政治化して抽象的な哲学的な議論を展開したいと言う旨の主張である。つまり、生身のトランスを視界から外して、自分たちの知的好奇心から「自認と同一性の関係」を論じる素材としてトランスジェンダーのトピックを使いたいというのである。
こうした態度は、哲学研究者には度々見られる。自分たちは社会学者が心理学者と違って、あくまでも哲学的に議論をしているとして、それまでの他分野での議論の蓄積を無視して「新しい見解」を発表する。しかしながら、「新しい見解」は過去の先人の営みに敬意を払った上で生まれる。他分野の研究者との交流なしに、学際領域での哲学研究は成立しない。
そんなことはありません。
他分野との研究者との交流なしに「ジェンダーに関して「も」成り立つ自認と同一性の関係の問題」を哲学的に議論できる余地はあります。
なぜなら、たとえジェンダー研究者の行ったジェンダーの定義と違う定義でジェンダーという言葉を使っていても、その哲学者たちが独自に行ったジェンダーの定義において「ジェンダーに関して「も」成り立つ自認と同一性の関係の問題」について哲学的に価値のある議論をしうる余地はあるからです。
「社会的な価値はなくても、社会的に有害でも、哲学的には価値がある」という議論は、ありえるのです。
そんなバカな話があるか。「社会的な価値がないけど哲学的な価値がある」なんて、ありえるか。
と思われる方もいると思います。
しかし、たとえば、永井均氏自身は、その著作『これがニーチェだ』の中で以下のように述べています。
ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大な哲学者にしている、と私は思う。
哲学を何らかの意味で世の中にとって有益な仕事と見なそうとする傾向は根強い。哲学ということの意味がどれほど一般に理解されないかが、そのことのうちに示されていると私は思う。 ニーチェのなかには、およそ人間社会の構成原理そのものと両立しがたいような面さえある。彼は、文字通りの意味で反社会的な(=世の中を悪くする)思想家なのである。それにもかかわらず、 いやそれだからこそ、ニーチェはすばらしい。他の誰からも決して聞けない真実の声がそこには確実にある。もしニーチェという人がいなかったなら、人類史において誰も気づかなかった----いや誰もがうすうす気づいてはいても誰もはっきりと語ることができなかった----特別な種類の真理が、そこにははっきりと語られている。だが、その真理は恐ろしい。多くの解釈者は、その恐ろしさを体よくごまかして、ニーチェを骨抜きにしている。私にはそう思われるのだ。
ありえるんです、これが。
これは、永井均氏による、「哲学」の独自定義ではないのでしょうか?
一般的な哲学の定義とは異なるのではないでしょうか?
では、他の哲学者の主張も見てみましょう。
中島義道『哲学の教科書』より引用します。
まず、哲学とは純粋な意味では「学問」ではないのですから、そこに執筆者の個人的な世界への実感が書き込まれていなければならない。自分の体験に沿ってごまかしなく語ることが、不可欠の要素でなければならない。客観的な哲学入門書こそ、いちばんの見当違いなのです。
なんと、「学問」じゃないと。
もちろん、たまたま永井均氏と中島義道氏の哲学の定義が変なだけという可能性もあります。
そこで、もう一人、哲学者の方の意見を引用します。
木田元『反哲学入門』より引用:
わたしはどうも「哲学」というものを肯定的なものとして受け取ることができないのです。社会生活ではなんの役にも立たない、これは認めなければいけないと思います。しかし、それにもかかわらず、百人に一人か、二百人に一人か、あるいは千人に一人か割合ははっきりわかりませんが、哲学というものに心惹かれて、そこから離れることの出来ない人間がいるのです。わたしもそうでした。答えの出そうもないようなことにしか興味が持てないのです。
人に哲学をすすめることなど、麻薬をすすめるに等しいふるまいだと思っています。
「子どものための哲学」なんて、とんでもない話です。無垢な子どもに、わざわざ哲学の存在を教える必要はありません。
哲学なんかと関係ない、健康な人生がいいですね。
哲学は「必要ない」し「不健康」だと。
これ以上引用するとクドくなるので、この辺でやめておきますが、
ようは「役に立たない」「学問ではない」「むしろ有害」というものとして哲学を位置づけて哲学をやってる哲学者はけっこういるのです(もちろん、哲学が役に立つと思っている哲学者もいますが)。
勘違いしないで欲しいのは、「哲学者は謙虚だから、謙遜してそう言ってる」というわけじゃないってことです。
彼等は、マジでそう思ってます。端的な事実として、本音で、そう思っています。
じゃあ、そんなものを大学で教えるなよ。税金使ってやるようなことじゃないだろ。
と思う方もいらっしゃると思います。
実際、上記ツイートで出てきた「元教え子」の谷口氏は、大学所属ではありません。
なんで本人じゃなく永井均さんがここまで攻撃されてるのかと思ったら、谷口一平って人は大学所属じゃないのか。なるほど。本人のキャンセルが難しいからってことね。
— コーザ・オブ・ゴタンダ (@11Vonnegut) 2023年12月30日
これについて、谷口氏は、以下のようにコメントしています。
ふふふ。私が「在野」を選んだ戦略が、すべて実ったのが今回の一件です。
— 谷口一平 A.k.a.hani-an (@Taroupho) 2023年12月30日
キャンセル不能な「無敵の人」にしか書けない論文を書いてしまったら、それは哲学的価値が非常に高い論文になってしまいますからね! https://t.co/wmYXSU7Ojy
「言われてないこと」というだけで、「新しい問いを提示した」というだけで、論文の価値は爆上がりします。アカデミズムの中の価値じゃなくとも、少なくとも哲学的価値は。
— 谷口一平 A.k.a.hani-an (@Taroupho) 2023年12月30日
ようは、大学に所属しないのは、谷口さんが自由に哲学的価値を追求するための政治戦略の一つだということです。
大学に所属していると、そこが弱点になって、政治的圧力をかけられて、哲学的価値のある議論を自由にすることが難しくなるリスクがある。彼が大学に所属しないのは、それも理由の一つだと。
一方、この件で問題となっている谷口氏の論文についた査読コメントに言及した谷口氏のツイートをまとめたTogetterについたはてなブックマークの人気コメントでは、アカデミズムの視点から懐疑的なコメントが見られます。
哲学論文なのに査読者がジェンダー論学者?
ResearchMap見たら修論含め2報しか論文ない人が先行研究のぶ厚い分野を絡めて論文書いて「査読者はわかってない!」と憤激するの、リアル「この分野は素人ですが」感。これ論文公開したら「アッ(察し」となる予感がする
2023/12/26 09:38
哲学論文なのに査読者がジェンダー論学者?
適切な査読者だったかどうかはよく分からないが、査読の冒頭を読む限り、論文としての体裁が怪しそうな気配は感じられる。修士取るのに4年間かけてるし/肝心の論文分からないんだから、ガワ見るしか材料無いじゃん
2023/12/26 09:09
哲学論文なのに査読者がジェンダー論学者?
「性自認」というものを議論するにあたっての先行研究の確認が足りなすぎるという指摘がされているだけ。象を見たことのない人が伝聞で象の哲学的論文を書いて、あなた象を知らないでしょと言われているようなもの。
2023/12/26 09:39
ところが、哲学者の永井均氏は、谷口氏の論文について、以下のようにツイートしています。
今日的な政治的闘争の現場なので、倫理的に正しいかを論じることもまた政治的態度表明になってしまうでしょうけれど、あえて卓越主義的観点から評価するなら、彼の持ち前の(彼以外誰も持ちえない)美質と力量とが十全に開花し、いかんなく発揮されて、見事というほかはなく、さらに尊敬を深めました。 https://t.co/McqbAno52M
— 永井均 (@hitoshinagai1) 2023年12月29日
私が彼に注文をつけたい点はただ一点で、こうなったら早く原論文を出版すべきだという点です。『新紀要』次号の他の掲載予定者の原稿が揃うのを待たずに、という意味です。こういう場面で悠揚な所も彼の美質の一つですが、今般は原論文の内容そのものについて論じられる場面に即座に持ち込むべきです。
— 永井均 (@hitoshinagai1) 2023年12月29日
はてなブックマークの人気コメントと、哲学者である永井均氏では、評価がものすごく違うということが分かります。
永井均氏は、単に身内贔屓をしているだけなのでしょうか?
しかし、永井均氏の著作を読んでいる人は、彼が、身内贔屓や甘い評価をする人間でないことは、よく分かると思います。
彼は、哲学的な議論においては、藤木源之助ですらもう少し手心を加えるだろ……というレベルに、容赦も手加減も忖度もしません。元教え子だから手心を加えるとか、そんなことは、とてもしそうにありません。というか、そんなことでは、哲学的な価値など追求できないのです。
その彼をして、こう言わせしめる論文を書くことが、いかに困難であるかを思うと、谷口論文が、哲学的には、かなりのレベルであることがうかがい知れます。
そうすると、
「なんで、哲学だけ、そんな特権的な地位が許されるんだ? そんなわけないだろ」
という批判をする人も出てきます。
たとえば、以下のツイートにそれが現れています。
いまだ、哲学があらゆる問題に対して、あるいはあらゆる「思想警察」に対してメタに立てるという幻想をベタに持てる愚かな「哲学者」がいるのは驚きでしかなく、思考の怠惰としかいえない。その幻想がありえないというところからしか哲学はありえないし、超越論的な立場というものもありえない。
— Tosei Moriwaki / 森脇透青 (@satodex) 2023年12月29日
これに対して、永井均氏は、以下のようにコメントしています。
「哲学があらゆる問題に対して、あるいはあらゆる「思想警察」に対してメタに立てる」と一般化するのは話が雑すぎます。まずは「あらゆる問題」が。そんな話はしていません。「思想警察」が主題ですが、「哲学」がそれに対してメタに立てるか否かというような問題は主題と関係がありません。 https://t.co/IrqnZWGeAB
— 永井均 (@hitoshinagai1) 2023年12月30日
あらゆる問題に対して「メタに立てる」ものなどはありえないと思いますが、特定の「思想警察」に対してメタに立てるものはその都度ありうるでしょう。哲学も使える場合はもちろんあるとは思いますが、その他のもの、例えば科学も使える場合が大いにあるでしょう。それをしていくべきだと思っています。
— 永井均 (@hitoshinagai1) 2023年12月30日
「メタに立つ」ことが目的ではなく、「ジェンダーに関して「も」成り立つ自認と同一性の関係の問題」について哲学的価値のある議論をすることが目的なのです。
結果的にそれがメタに立つことになる場合もあるし(そもそも「メタに立つ」ことがあるのは哲学固有の特徴ではなく、学問全般でよくあることです)、「いや、それ、ジェンダー研究者のジェンダーの定義と違うジェンダーだから、哲学の世界だけに閉じた議論だろ。ジェンダー研究とは関係ないね」と、片付けられるような場合もあると思います。
しかし、いずれの場合も、それが哲学的価値のある議論たりうる、ということは否定できないと思います。
逆に言うと、「ジェンダーに関して「も」成り立つ自認と同一性の関係の問題」について、哲学者たちがどんなに哲学的価値のある議論をしようとも、彼等が「社会的にも価値がある」と言い出さない限りにおいて、ジェンダー学者たちも活動家の方々もスルーしていいのではないでしょうか。
また、世間一般の方々も、「哲学者たちが、哲学的に価値のある議論をしているだけで、私たちには関係ないね」という態度でいいのではないでしょうか。
木田元さんの言うように、哲学とは、それを必要とするごく少数のマイノリティのためのものなのですから。
この記事の作者(ふろむだ)のツイッターはこちら。
※この記事は、文章力クラブのみなさんにレビューしていただき、ご指摘・改良案・アイデア等を取り込んで書かれたものです。