分裂勘違い君劇場の別館

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/ の別館です。

多くの若い人より圧倒的に成長速度の速いおっさんと絶望的に遅いおっさんの違い

 新しい技術が出てきたとき、大多数の若い人よりも圧倒的にスピーディーに使いこなすおっさんは珍しくない。
新技術を習得する能力は、年齢よりも、「スキルを獲得するために必要なスキル」、すなわち「メタスキル」に大きく依存するからだ。

たとえば、ある開発ツールを導入すべきかどうか若い人に相談されたので、「まず、ドキュメントを読もう」と言ったら、「ドキュメントを読んでもよくわからなくて。。」と言う。ググったらすぐに公式サイトの至れり尽くせりのドキュメントが出てきたので、「これ読めばいいじゃん」と言ったら、こんなに大量の英語のドキュメントを読むのは無理だと言う。
あるいは、AIを導入するという話になったとき、「AIがよく分からないので教えて欲しい」と言ってきた若い人に、良質の入門書を勧めたら、数式が分からないので読めないのだという。数式の読み方を教えてみたら、数式以前に、そこで使われている数学概念自体を理解していないことが判明。
新しい設計手法の導入検討のミーティングで、頓珍漢なことを言う若い人に主張の根拠を尋ねたら、そもそもコンピュータサイエンスやソフトウェアエンジニアリングの基礎ができていないことが判明。
えらく業務フローが非効率なので、「業務設計をやりなおして、こことここの部分はコンピュータにやらせて、人間はこういう作業をやるようにすれば?」と言ったら、そもそもコンピュータに何ができて何ができないのかがわかってないから、コンピュータを前提とした業務フロー設計ができないことが判明。

同様のケースは、企画、デザイン、マーケティング、データ分析、マネージメント、ビジネス、経営、いたるところで見られる。

新しい技術、新しい分析手法、新しいビジネス手法、新しい開発手法、新しい経営手法のほとんどは、まるっきりゼロから生まれるなんてことはなく、たいていは巨人の肩の上に生まれる。そして、すでに何十年も掛けて巨人の肩の上によじ登り終わったおっさんは、ほんのちょっと手をのばすだけで、すぐに新技術の果実を掴み取れる。これに対してまだ巨人の肩の上に乗っていない若い人は、そもそも巨人の肩の上によじ登るところから始めなければならない。彼らにとって、新技術は、気の遠くなるような彼方にある。

それに、そもそも「技術はすぐに陳腐化するから、おっさんの知識は古くて使えない」というのは、半分本当だが、半分はウソだ。陳腐化してゴミになる知識もたくさんあるが、陳腐化せずに蓄積していく知識も膨大にあるのだ。「いまからシステム開発を始める若い人は、RDB、オブジェクト指向、デザインパターン、正規表現、並列プログラミングなどという時代遅れの知識を学ぶ必要はない」とはならない。

それどころか、むしろ、既存技術を深く理解して使いこなしている人の方が、新技術をきちんと理解し、うまく使いこなすことは珍しくない。NoSQLが流行りだしたとき、それがはっきり現れた。RDBを十二分に使いこなし、そのメリット・デメリット・限界を知り尽くしている人間の方が、NoSQLの意味を素早くかつ的確に理解したし、効果的に使いこなせていた。RDBの理解が浅い人間の方が、そもそもなぜ、どんなところにNoSQLを導入すべきかを見誤ることが多かった。
ディープラーニングだって同じだろう。既存の技術を十分に使いこなし、その問題点と限界をよく理解している人の方が、なぜ、どんなところにディープラーニングを導入すべきかを的確に理解できるだろう。新技術の本質的意味は、既存技術の限界を超えるところにあるのだから、既存技術の限界ラインが明瞭に見えていない人間には、新技術の意味をきちんと理解するのは難しい。

ただしこれは、何十年にも渡って基礎からしっかり積み重ね続けてきたおっさん限定の話だ。電車の中でゲームをやってるおっさんと、仕事の本を読んでいるおっさんがいるが、彼らが積み重ねてきたものの差異は、目がくらむほどだ。週5日、毎日1.5時間ずつ勉強時間を積み重ねてきた人と、遊び続けてきた人の差は、数十年の時を経ると、超えることが不可能なほどの絶望的な落差になってしまう。単位時間あたりのスキル獲得量の高い仕事を何十年もやり続けてきたおっさんと、たいして身にならないような仕事ばかり数十年やってきたおっさんの差は、それよりもさらにずっと大きくなる。

これが若い人なら、才能とやる気さえあれば、これから時間をかけて巨人の肩の上によじ登ることができるが、積み重ねてこなかったおっさんは、いまからでは、もはや巨人の肩の上によじ登るだけの気力も体力もない。

結局、「若い時代の気力と体力」という、一生に一度きりしか与えられないエネルギー源を推進力にして第二宇宙速度(地球脱出速度)に到達できたかどうかが、分水嶺になる。第一宇宙速度にすら到達できなかったおっさんは、あとは落下していくしかない。しかし、地球の引力を振り切るまで加速したおっさんは、むしろ多くの若者よりも楽に飛びまわれる。

ただし、大学院卒業時点で、すでに極めてレベルの高い英語・数学・コンピュータサイエンスなどの基礎能力を持った若者というのはときどきいる。十分な経験を積んだおっさんが、わずか数年で、そういう若者にあっさり凌駕されるというのもまたよく見る光景だ。

そういうウルトラハイスペックな若者と真正面から殴り合うのは、おっさんとしてはあまり賢い戦略ではない。「いくら基礎能力が高くても、経験を積まない限り、どうにもならない」という分野やポジションはたくさんあって、そういう立ち位置で、彼らと役割分担し、上手に住み分けるのが賢い生存戦略だろう。とくに「高い基礎能力」と「豊富な経験」の両方を併せ持ってはじめて可能になる仕事というのは、「ハイスペックな若者」にも「経験だけしかないおっさん」にもできないため、供給に比べて需要のほうがはるかに大きい。その立ち位置にたてれば、それこそ還暦を過ぎても、かなり自由に飛び回り続けられるのではないかと思う。

そして、このシナリオが崩壊するのは、健康を害した場合だ。だから、仕事よりも健康を優先する戦略は必須だ。健康を害してまで仕事を頑張っても、待ち受けているのは重く暗い下り坂の未来だけだ。
むしろ最後に笑うのは、健康を守るために仕事を捨てなければならないときに、あっさり捨てる決断ができた者たちなのだ。

 

 

 

 

関係ないけど、さきほど驚異的で芸術的な、いぶふぶのラプラスを捕まえて、今、喜びの踊りを踊っている。これで、あちこちでのさばってるカイリューどもを倒しまくれるぜ。こんなことに時間を使っているおっさんの未来は、やっぱ、やばいんだろうか?

f:id:fromdusktildawn:20170615194005j:plain

なぜ、ヨッピーさんの記事はタイトルにPRを入れなくても受け入れられてきたのか?

PR無表記の広告記事が邪悪なのは、「広告を記事だと誤認させて、読者の時間とギガを奪う」からです。
しかし、「コンテンツ性の高い広告記事」の場合、普通に「記事コンテンツです」って言っても問題ないくらいにコンテンツ性があるんなら、「記事コンテンツのように見える」ことが、「誤認させていることになる」と言い切れるでしょうか?「記事だと思ってクリックしたら、(広告にもなってるけど)普通に記事として楽しめた」であるなら、それって「誤認」なんでしょうか?

もちろん、その記事広告が「表示位置」を金で買っている場合、だれのどんな記事広告であろうと、必ず「PR」を入れないと、「その記事が、その面白さによってその位置に表示された」と読者に誤認させることになります。

しかし、「ヨッピーさんの広告記事がはてなのホッテントリに上がってくる」というような場合、ここがだんだんグレーになってくる気がするのです。
なぜなら、ヨッピーさんは、はてなに広告料を支払ってその表示位置を買ったわけではないからです。少なくとも、その点については、「誤認」などはさせていません。

ただ、広告であるにも関わらず、記事中で広告である旨が一切わからないように記事にするとしたら、別の意味で「誤認」させているでしょう。広告なのにもかかわらず広告ではないと誤認させているわけです。
しかし、ヨッピーさんの記事の場合、記事を読めば、すぐに広告であるということがわかるようになっています。

私が気になっているのは、ヨッピーさんの広告記事のタイトルにまで「PR」を入れるのは、逆の意味で「誤認」を引き起こしていないかな、という点です。
むしろ広告でない一般記事以上に、コンテンツ性の高い記事なのにもかかわらず、ヨッピーさんをよく知らない多くの人々が、「コンテンツじゃなくて、ただの広告でしょ」と誤認してしまったりしないでしょうか。もしそうだとすれば、本当にそれはフェアだと言えるんだろうか?という疑問がわきます。

ある特定の企業からお金をもらってその企業を取材させてもらってコンテンツ性の高いテレビ番組を作成したら、そのテレビ番組は「広告です」と画面の下に表示し続けなければならないのでしょうか。

「コンテンツ性が3で広告性97」という記事と、「コンテンツ性が80で広告性が20」という記事は、どっちもタイトルに「PR」とつけるのが、フェアなんでしょうか?

もちろん、「ヨッピーさんの記事は面白いから、タイトルにPRを入れなくても許される」などという雑な主張をするつもりは毛頭ありませんが、すべての広告記事を十把一からげにして「全ての広告記事は、記事タイトルにPRが入っていなければ誤認を引き起こす」という主張って、雑だなーと感じてしまうのです。

そして、誤認を引き起こすかどうかは、純粋に「タイトルにPRが入っているかどうか?」という「形式のみ」によって判定するのが正しいのか?ということが論点としてあるかと思います。
たとえば「きみ、美人だね!」と言うのがセクハラかどうかは、純粋にその文言だけでは決まりません。真道幸路朗のような爽やかなイケメンの先輩が言ったらセクハラにならなくても、キモいおっさん上司が言ったらセクハラになったりします。誤認を引き起こすかどうかの判定にも、このような文脈依存性はないのでしょうか?PR表記問題は、純粋に形式のみによって倫理的な判定が可能なのでしょうか?

なぜ、ヨッピーさんの記事はタイトルにPRを入れなくても今まで受け入れられてきたのか?というと、人々の倫理的判断が、「記事タイトルにPR表記があるかどうか?」という「純粋な形式」だけでは決まらないからではないでしょうか?

もちろん、法律で「広告記事では、タイトルにPR表記がなければならない」と決まっているなら、それは「形式のみ」で決まってくる可能性はあると思います。しかし、法的な是非ではなく、倫理的な是非を問うのであれば、「形式のみで正邪の判定はできる」という主張は、どうも粗雑な感じがするのです。

もうちょっと何か、しっくりくる落とし所はないものなのでしょうか。

2倍成人式(40歳):年相応の大人になれたかどうかのチェックリスト

10歳の子どもたちの「2分の1成人式」の話に触発され、
『じゃあ、40歳の大人がちゃんと成熟した大人になれたかどうかの
「2倍成人式」があってもいいのではないか』と思い、
自戒を込めて「40歳ならこのぐらいはできてもいいんじゃないか」というチェックリストを作ってみました。


●人の育成
・子供であれ、友人であれ、後輩であれ、部下であれ、同僚であれ、あなたは今までどれだけの人が健やかに育てるように支援してきましたか?


●動機づけ
・あなたは、子供であれ、友人であれ、後輩であれ、部下であれ、同僚であれ、それぞれのやり方で動機づけ、気持ちよく物事に取り組めるようにしてきましたか?


●人の発掘
・あなたは、今までにどれだけの人の可能性を見つけ出し、引き出し、それぞれの適性に応じたミッションと待遇が得られるようにサポートしてきましたか?


●傾聴
・あなたは、子供であれ、友人であれ、後輩であれ、部下であれ、同僚であれ、一人ひとりの言うことに丁寧に耳を傾け、その気持と意図をしっかり汲み取って行動できていますか?


●落とし所
・あなたは、議論のための議論ではなく、ちゃんとみなを幸せにする落とし所に、効率よくたどり着けるように、人々をサポートできていますか?


●紹介
・あなたは、それを必要としている人に、適切な人を適切に紹介することができていますか?


●委任
・あなたは、適切な仕事や役割を、適切な人に委任することができていますか?


●落とし穴回避
・あなたは、あなたの子供・友人・知人・後輩・同僚・部下たちが、落とし穴に落ちないように、先回りして落とし穴を洗い出し、誰もそこに落ちることがないように、十分な対策を施していますか?


●ビジョン
・あなたは、人々が納得感を持って働けるような思想・価値観・ビジョンを作り上げ、人々に示すことができていますか?


●多様性
・あなたは多様な価値観、性別、年齢、文化、言語、国籍、宗教、職種の人と、互いに理解しあい、協力してものごとをすすめることができていますか?


●スペシャリティ
・あなたは、「これに関しては、私に任せてくれ」と自信を持って言える得意分野・専門分野を確立していますか?


●居場所
・あなたは、家庭であれ、地域であれ、職場であれ、自分の属するコミュニティや組織で、それぞれしっかりした自分の居場所を見つけられていますか?


●ロールモデル
・あなたは人々に、「こういう生き方もありなんだ」と思えるようなロールモデルを提示できていますか?


●自己受容
・あなたは、自分の過去と、現在と、 予想される未来の可能性を、受け入れることができていますか?

 

 

【追記】


 


●感謝
・無事に40歳になれたことを、あなたを育ててくれた親、先輩、同僚、後輩、配偶者、子どもたちに感謝していますか?


●感情
・自分及び他者の、怒り、嫌悪、憎しみ、嫉妬、落胆、不安などの感情に脊髄反射的に反応するのではなく、かといって感情を無視するのでもなく、先々のことまで考え抜いて、賢明で包容力のある行動ができていますか?

 

 

■その他

特に仕事に限った話ではないので、仕事以外のことも明示的にカバーするように表現を修正。それと、おこがましい表現を改めた。

運動瞑想野菜が必要な21世紀人は、自分が底辺ってことさえ知らない

「運動しないと健康を損ねる」だって?

そんなわけあるかよ。運動なんか全くしなくても、何百年も健康に過ごしている人はいくらでもいるだろ。

もし運動しないと不健康になる人がいたら、それは単なる生体メカニズムのバグだから、さっさと修理しろよ。
。。と思って調べたら、21世紀って、まだそれ直すテクノロジーがなかった時代なのな。
ということはなにかい、運動したくないときでも、無理やり運動しなけりゃならないってこと?
うへえ。どんな地獄だよ。
そんな時代に生まれなくてよかったって、心から思うわ。
考えたこともなかったけど、俺って実は幸せだったんだな。

 

運動しないと老化が早まる?

「老化」ってなんだろうと思ったら、細胞内分子構造のエラーの蓄積だの、内分泌システムの機能劣化だのなんだの。
そんなもん単なる生体分子補修システムのバグだから、さっさと修理しろよ。
と思ったら、21世紀は、まだ生体分子構造のエラーを自動修復するシステムが人体に組み込まれる前の時代だったのな。
ということは、なにかい、日々、自分の細胞内分子構造にエラーが蓄積されていくことに怯えながら、増えていく体の不調に苦しんで生きていくわけ?
それ、とんでもなく残酷な拷問だろ。
その拷問に責め苛まれながら、たかだか100年もしないうちに「老化」に殺される人生って、とんでもないホラーだな。
恐ろしい。恐ろしい。
こんな底辺の時代に生まれなくて、ほんと、よかったわ。


瞑想しないと大脳が壊れたメンヘラになる?
これもイミフなんで調べてみたら、なんと、21世紀は、脳のデフォルトモードネットワークのバグが修復される以前の時代で、自分の意志で、脳を自在に休ませることができず、放置すると、脳の一部が萎縮してしまってたらしい。
だから、わざわざ自分で自分の脳がコントロールできるように、日々、瞑想という名の脳制御訓練をする必要があったんだって。
しっかし、自分で自分の脳がコントロール出来ないって、どんなホラーだよ。
そんな地獄のような時代に生まれなくて、ほんとよかったわ。


野菜を食べなきゃならない理由も、やっぱり、生体メカニズムの設計の問題だった。野菜を食べないと体調悪化するって、しかもその設計ミスを永遠に修正できないって、なんという。。


そんなどうしょうもないド底辺を這いずり回って生きていた21世紀人が、
田舎高卒は自分が底辺ってことさえ知らない」などと、同じ時代のさらに底辺の人間と自分との格差を気にしていたって言うんだから、なんとも微妙な気持ちになるな。

 

 

ポケモンgoの楽しさと奥深さを、やってない人にも理解できるように解説する

ポケモンgoは、ポケモンを集めて、育てて、バトルするゲームだ。
バトルそのものも楽しいが、バトルで勝てるようなポケモンを捕獲・育成するのが最高に面白い。
ポケモンの捕獲と育成は、運もあるが、単なる運ゲーじゃない。手間ひまかけないといいポケモンはゲットできないが、時間さえかければ強いポケモンをゲットできるわけでもない。深く考えずに適当にやっていると、膨大な時間を費やして集めたポケモンが、どうしょうもないゴミポケモンに育ってしまう。

 

ルールと状況がどんどん変化していくので、みな、今後のルールと状況の変化を予測しながらプレーしている。

たとえば、ある女の子は、スマホを2台持ってポケモンをしている。これは、今後、ポケモンのトレードが開始されることを読んでいるからだ。
いいポケモンは、出現頻度が少ない。そして、ある場所に出現すると、数分~十数分間だけ存在し、消えてしまう。そのポケモンは、誰か一人が捕獲しても、他の人のスマホから消えてしまうということはない。全員のスマホに出現する。だから、いいポケモンが出現したら、二刀流で捕獲すれば、2倍捕獲できることになる。
二刀流にする理由はそれだけではない。ある場所に出現したポケモンは、そこに存在する全てのスマホに出現するが、それらは完全に同一の才能を持ったポケモンではない。同じ種族のポケモンではあるが、CP(戦闘力)、個体値、技が違う。スマホを2台持つことで、どちらか片方が、これらのパラメータの高いポケモンになる確率がぐっと高くなる。
CPは後から増強することが可能だが、個体値は生まれ持っての才能のようなもので、後から何をやっても、改良することができない。
さらに、ポケモンは進化させることで飛躍的に強くなるが、進化した後、どんな技を持つ個体になるかは、予測ができない。最高の種族に属し、最高のCP(戦闘力)と最高の個体値を持った個体を進化させてみたら、どうしょうもないゴミ技しか持たないポケモンになってしまうこともある。ゴミになってしまったら、もう二度と治らない。もう一度捕獲からやり直しだ。
しかも、進化には、ポケモンのアメが大量に必要だ。ポケモンのアメは進化系統ごとに異なり、互換性がない。ミニリュウのアメは、ミニリュウの進化系統にしか使えない。1匹のミニリュウを捕獲すると3個のアメがゲットできるが、ミニリュウをハクリュウに進化させるには25個のアメが必要で、ハクリュウをカイリュウに進化させるには100個のアメが必要だ。ミニリュウは1つのアメと交換できるので、ミニリュウ1匹捕まえると、4個のアメをゲットできることになる。だから、ミニリュウを集めて進化させてカイリュウにするには、32匹のミニリュウを捕獲しなければならない。しかも、そこから更に、たくさんのアメを使って、カイリュウを強化していかなければならない。いいポケモンを育てるには、めったに出会わないポケモンをそれだけ大量に捕獲しなければならないのだ。
だから、いい種族のポケモンに出会うという幸運に恵まれたら、ここぞとばかり、可能な限り多くのスマホで、そのポケモンを捕獲しまくるというのは、バカバカしいようで、意外と合理的な戦術の可能性がある。


運営側によって、技の強さなどのパラメータが変動するリスクをマネージメントすることも、ポケモン育成の駆け引きを高度なものにしている。
たとえば、以下のような会話がある:
「この技が強力だから、この技を持ったポケモンを育てよう」→「今までの運営側の対応の経緯から見て、この技は強すぎるので、今後は運営によって下方修正されるリスクがけっこうある。それよりも、この場合は個体値優先で育てた方がいいんじゃないの?」
「このポケモン、個体値は最高なんだけど、弱い種族に属しているから、持ってても意味ないよね」→「いやいや、将来的に、運用側によって種族の強さが変更される可能性もあるから、個体値が高ければ、念のためキープしておいた方がいいよ」
「個体値って、どこを見れば分かるの?」→「ゲーム内を見てもわからない。チェックするツールをネットで探してチェックする」→「このツール、面倒くさい」→「個体値を簡単にチェックするツールを見つけたよ」→「それ、便利だけど、公式に認められているツールじゃないし、使っていることが運営にバレる仕様になってるし、それを使っていると、アカウントをバンされるリスクがあるよ」→「それでバンされた人はいないよ」→「今のところはね。今後はどうかわからない」→「利便性と、そのリスクの大きさを天秤にかけて、どちらをとるかだな」


ポケモンの巣の流動性もゲームを高度化させている要因の一つだ。
初期は、いいポケモンが高密度かつ高頻度で出現するポケモンの巣があったが、現在のポケモンの巣は大幅に劣化し、いいポケモンの出現頻度も密度も、大幅に低下した。
今後は、さらにポケモンの巣が劣化していく可能性がある。
ということは、初期にいいポケモンの巣で、いいポケモンをゲットしまくった人たちは圧倒的に有利で、ポケモンの巣が劣化してから行動し始めたプレーヤーとの格差は、なかなか縮まらないことになる。
なので、ポケモンの巣の劣化リスクをいち早く予測して、迅速に行動できた先見の明のあるプレーヤーが、現在、圧倒的にすぐれたポケモンを保有している状態になっている。
さらに、ポケモンの巣の劣化を予測して、そのままポケモンの巣に突撃したプレーヤーが、虫刺されと日焼けと電池切れで、ほうほうの体で退却してきたという話がある一方で、これらを予測して、はじめから日焼け止めと虫除けスプレーと大容量電池を装備して準備万端でポケモンの巣へ侵攻したプレーヤーは、大量に捕獲された超豪華ポケモンのスクショをLINEグループに流していた。
物理的な装備品の先読みもまた要求されるゲームなのだ。


さらに、最高のポケモンを1つ手に入れれば、それでゴールという単純なゲームではない。
ポケモンはジャンケンポンの関係にあり、あるポケモンに対して強くても、別のポケモンに対しては弱いという関係が、複雑に絡み合っている。
しかも、そのジャンケン関係は、ポケモンの種族だけでは決まらない。技の種類にもよる。1つのポケモンは、2つの技を持つから、非常に複雑なジャンケンネットワークが形成されている。
さらに、バトルは一人のプレーヤーが最大6匹のポケモンを出して行う。1匹だけ強くても勝てない。
バトルはジムと呼ばれる場所で行う。ジムにはポケモンが1~10匹配置されている。このジムに対して、ユーザは一人で6匹のポケモンをぶつける。ただし、ジム攻略には、ある程度の後出しジャンケンが可能だ。ジムに配置されているポケモンに対して有利になる順番にポケモンを並べてぶつけることができる。
だから、強いポケモンを6匹手に入れられればそれで終わりということにはならない。その6匹が、たまたまジムに配置されているポケモンに対して不利なポケモンばかりだったら、勝てないからだ。ジムにどんなポケモンが配置されていようとも対応できるように、さまざまなバリエーションの強いポケモンを揃えていく必要がある。
しかも、種族と技の世間相場が、その普及状況によって変動する。種族Aのポケモンが大量に出回れば、そのポケモンに対して有利な種族Bのポケモンの価値が上がる。また、種族Aに対して有効な技Xの価値も高まる。これによって種族Bと技Xが増えてきたら、今度は、種族Bと技Xに対して有利な種族と技を持つポケモンの価値が高まるのだ。


話はまだまだ沢山あるが、書くのに飽きてきたのでこの辺で終わりにしておく。
もちろん、ポケモンgoにはいろんな楽しみ方があるから、これだけがポケモンgoの遊び方ではないし、他人様の遊び方にとやかく言うつもりはない。

私自身も、ゲームとしてのポケモンgoというより、ポケモンgoという社会現象の渦の中で、時代の空気に浸って楽しむことを主な目的としてプレーしている。
ポケモンgoというのは単なるゲームではなく、時々刻々と変転していく一期一会の社会現象であって、後から参加しても、「始まったばかりのころのポケモンgo」はもう永遠にプレーすることはできない。
たとえば、ミニリュウが出現すると、周囲の人間が一斉に走りだすのは、なんだかバカバカしくて、すごい笑える。真夏の炎天下の中、これだけ大勢の見知らぬ人間たちが集まって、目に見えぬモンスターを捕獲するためにダッシュするという光景って、ええじゃないか運動や安保闘争のような、人類史的な出来事なんじゃないだろうか。ルールや状況が変化すると、こういう光景はもうなくなってしまう可能性がある。いつか歴史の生き証人として、未来の子どもたちに語って聞かせたいような珍事件だ。

この、二度と再び味わうことができないかもしれない社会現象の面白さを、少しでも多くの人に感じてもらえたら、と思って書いてみました。

 

個人も企業も現金を貯め込んだほうが、より多くの人々が幸せになる社会になる

すべての労働者が、5年分の生活費相当の貯金を持っていれば、ブラック企業に勤めている人は今すぐ辞めて、たっぷり時間をかけて転職活動し、ずっとマシな企業に転職できるだろう。
ブラック企業は人手不足で企業活動が縮小して市場シェアを減らし、その分だけホワイト企業はシェアを伸ばし、より多くの社員を雇えるだろう。
社会全体は、より白に近いグレーになるはずだ。

これは企業も同様。
十分な貯金さえあれば、ブラックな顧客を切って、優良顧客だけを相手に商売できるようになる。
ブラックな顧客を相手にする企業はなくなり、ブラックな顧客は、法外な料金を支払わないと、サービスを受けられなくなるだろう。
これによって、ブラックな顧客は減り、社会全体は、より白に近いグレーになる。

つまり、個人も企業も、十分な現金を溜め込めば、
ブラック企業もブラック顧客も淘汰され、
世界はより良いところになるはずだ。

そんなことをすればデフレになるって?
いやいや、必ずしもそうはならないんだ。

企業や個人が現金を貯めこむとデフレになるのは、
貯めこまれた分だけ、市場の通貨供給量が減ってしまうからだ。
だったら、企業や個人が現金を貯めこんだ分だけ日銀が通貨供給量を増やせばいい。
その分だけ日銀がお札を刷って、市場に供給すればいい。
そうすれば、通貨供給量はプラマイ0になり、デフレーションは起きない。

デフレーションは、通貨供給量だけでは決まらないって?
そのとおり。
デフレは単なる通貨供給量だけでは決まらない。
デフレは「デフレ期待」によって引き起こされる。
だから、マッチョで強面の日銀総裁が通貨供給量を増やしまくる姿勢を見せつけて、インフレ期待を煽ればいい。日銀砲の巨大な銃口を突き付けて、

「『デフレになるだろう』と期待して行動すると、あとで心底後悔することになるぞ」

と脅しつけ、震え上がらせればいい。予期せぬタイミングでいきなり日銀砲をぶっ放し、みなをチビらせてやれ。みなをとことんビビらせて骨抜きにして、インフレ側に賭けさせるのだ。

それによって、デフレ期待を相殺すればいい。

日銀が、貯めこまれた現金より多い現金を市場に供給すれば、インフレになる。
日銀総裁が、貯蓄性向の高まりを凌駕するだけのインフレ期待を作り出せば、インフレになる。

「インフレになれば、人も企業もお金を使うようになる」と言っている人がいるが、まずそんなことにはならないだろう。
過去のインフレ率と銀行預金の利率を比べた場合、中長期的には、インフレ率よりも預金の利率が上回っているし、短期的には銀行預金の利率がインフレ率を下回ることもあるが、その間は人々は日本円以外の流動性資産として資産を保有するだけだ。いつでもすぐに現金化できる資産であれば、必ずしも日本円の現金で保有している必要性はないのだから。

結局、インフレになったとしても、「個人も企業も、現金(流動性資産)を貯めこんだ方が得」という状態に変わりはない。

 

いくら日銀が通貨供給量を増やしても、企業も人も金を使わなければ、経済は回らない?

そのとおり。
これに対しては、いくつかの解決策がある。

一つ目。時間が解決する。
たしかに、「現金は貯めれば貯めるほど得」というのは、誰にとっても変わらない。
しかし、「どれだけ得になるか?」、すなわち「貯めることの効用」は、現金を貯めれば貯めるほど、減っていく。効用は逓減する。
一方で、「現金を使うことによる効用」は、現金をいくら貯めても減ってゆかない。
ということは、一定以上現金が貯まれば、「それ以上は、現金を貯めこむより使ったほうが得」という状態に達する。
そうなれば、ごく普通に経済全体の総需要は回復していく。
そして、総需要回復後の経済は、以前の経済よりも、はるかにホワイトで、最大多数の最大幸福を実現する、優しい経済になっているはずだ。

二つ目。外需。
世界には、物が欲しくて欲しくてしょうがない人々が何十億人もいる。
そういう人たちにお金を使ってもらえば良い。
お金をあまり使わないたかだか1億人ちょっとの人口を相手にするよりも、お金を活発に使う数十億人を相手に商売したほうが、よっぽど経済は回る。

3つ目。財政政策。
個人と企業が現金を貯め込めば、その分だけ、政府は財政政策をする余裕が生まれる。
政府が財政政策を行うには、国債の発行を増やさないといけない。
国債が増えすぎると、国は国債の利払いだけで疲弊してしまうことになるが、日銀が国債を買いまくれば、そうはならない。
日銀が保有する国債の利子は、日銀の収入になる。その収入は、そのまま政府のものになる。
もちろん、過剰なインフレになったら、日銀は国債を売却して市場から通貨を回収しなければならなくなる。しかし、そもそも企業と個人が現金を貯めこんだ分だけ国債を買っているのであれば、通貨供給量はバランスし、そもそもそこまで過剰なインフレにはならない。
こうして、企業と個人が現金を貯めこんだ分だけ政府が財政出動しても、巡り巡って、ちゃんとバランスするようになっている。
そして、個人と企業が現金を貯めこんだことによる需要減は、政府の財政出動で相殺され、バランスすることになる。


ほんとうに人々を幸せにする政策をとことん考えぬいて出された思慮深い結論が、「経済を循環させるために、個人や企業に貯金させないようにする」だとは、とうてい思えない。
なぜなら、十分な貯金は、人が健康的で文化的な暮らしをするのに不可欠だし、企業が健康的で文化的な職場を維持するのにも不可欠だからだ。
経済を循環させるために、個人や企業に貯金させないようにすれば、貯金を失った人はブラック企業から抜け出せなくなり、貯金を失った企業はブラック顧客からの注文を断れなくなる。そして、ブラックな生活と職場が社会に蔓延する。
こんな社会を誰が望むというのだろうか?

もちろん、これは難しい問題であり、そう簡単に解決できる問題ではない。
だから、必然的に、この記事で提示されたロジックも穴だらけであり、そんな簡単には解決しない。するわけがない。
ただ、難しい問題には常に簡単な、しかし間違った答が存在する。
「経済を循環させるために、個人や企業に貯金させないようにする」という「簡単な答え」に脊椎反射的に飛びつく前に、もう少し、考えるべきことがあるのではないかと思う。

儲かったら社員に分配するより貯めこんだほうが企業はうまくいく

たっぷり現金があれば、イヤな客からのクソ案件を断ることができる。
しばらく収入がなくなったとしても、優良顧客からの美味しい案件が入るまで、貯金で食いつなぎながら待てばいい。
現金持ちの企業が断ったクソ案件は、現金のない企業が苦しみながらこなすことになる。

思わぬチャンスが訪れたとき、現金がなければ、そこに優秀な人材をアサインすることができない。
ろくに現金のない企業は日銭を稼がないと潰れてしまうから、優秀な人材を、日銭を稼ぐための案件に投入してしまう。未来を切り拓く案件に優秀な人材を投入できないのだ。

不運に備えるには大量の現金が必要だし、
幸運に備えるにも大量の現金が必要だ。

不確実性の時代には、不運と幸運の両方の量が多くなる。
だからより多くの現金を保有した企業が有利になる。

世界の不確実性はどんどん増してゆき、未来はますます予測が難しくなっている。
リーマン・ショックを、誰が予測できただろうか?
スマホの急速な普及を、誰が予測できたろうか?
中国バブルがいつ崩壊するのか、誰が予測できるだろうか?そもそもあれはバブルなのかどうか、誰に区別がつくというのか?

より不確実な時代には、よりたくさんの現金を、企業は貯めこまなければならない。

企業が現金を溜め込むから景気が悪くなる?
そうかもしれない。
しかし、ゲームのルールが変わったのだ。
「現金を貯めこむ企業の方が有利になる」というルールになったのだから、
現金を貯めこまない企業はどんどん不利になるだけだ。

 

もっと正確に言うと、ゲームのルールが元に戻ったのだ。たまたま不確実性の低い時代が続いていたが、そんな安定した時代は、人類史においてはむしろレアだ。そのレアな時代が終わり、また元の不確実性の高い世界に戻ったのだ。


企業は、社会全体の景気を良くするために、自社の未来を捨てて、貯めこんだ現金を吐き出さなければならないのだろうか?
日銭を稼ぐのに精一杯のクソ会社に転落しなければならないのだろうか?


儲かった金を労働者に分配せずに溜め込んでしまう企業は、
社員の士気が上がらないし、優秀な人材も集まらないからうまくいかない?
もちろん、儲かっているのに、市場価格よりもはるかに低い賃金しか払わない企業はうまくいかないだろう。
しかし実際には、一部の優秀な人材にだけは多めに払った方がいいだろうが、
それ以外の人材の賃金は、市場価格にやや色をつける程度に抑えておいた方がいい。
それ以外の利益分は、会社に貯めこんでおいた方が、結局は明日に繋がる。
たまたま今儲かっているからといって、宵越しの銭は持たない江戸っ子のように、気前よく社員に分配してしまうような会社に未来はない。明日はどんな嵐になるとも分からない時代だというのに。


現金で貯めこむより、どんどん投資した企業の方がうまくいく?
かつて未来が予測しやすい時代はそうだったかも知れない。
現金を貯めこむより、現金を効率よく投資して利益を生み出す企業の方が、優良企業とされた時代があった。
しかしながら、時代は変わり、ゲームのルールが変わったのだ。
状況が変われば投資は無駄になりやすい。
現金のほうが、はるかに状況変化に強い。
もちろん投資も引き続き重要だが、かつてよりも現金の重要性がはるかに上がっている。
現金預金と投資の最適比率が変わったのだ。
投資を減らし、現金を増やさないと、今の時代、そして、次の時代に適応できない。

 

じゃあ、法律を変えて、企業が現金を貯めこむことに課税するようにすればいい?

日本だけそんな法律を作れば、日本経済の衰退に拍車がかかるだろう。

 

ほんとうに、企業が現金を貯めこむこと自体が、非難されるべきことなのだろうか?
それによって景気に悪影響があるとしても、それは国の金融・財政政策で対処すべきものであって、「企業に現金を貯めこむな」というのはスジ違いなのではないだろうか。
それによって労働者の平均賃金が下がるとしても、それは国が福祉の充実など別の手段で対処すべきものであって、「企業に現金を貯めこむな」というのはスジ違いなのではないだろうか。
それによって投資が減るとしても、その分、企業は幸運と不運に対する対応力が上がるのだ。


結局南極、誰がどんな主張をしようが、
幸運と不運の総量が増大する不確実性の時代は、
企業だろうが、個人だろうが、十分な現金を貯めこんだプレーヤーが圧倒的に有利になる。
そういうルールのゲームになってしまっているのだ。