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分裂勘違い君劇場の別館

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/ の別館です。

ポケモンgoの楽しさと奥深さを、やってない人にも理解できるように解説する

ポケモンgoは、ポケモンを集めて、育てて、バトルするゲームだ。
バトルそのものも楽しいが、バトルで勝てるようなポケモンを捕獲・育成するのが最高に面白い。
ポケモンの捕獲と育成は、運もあるが、単なる運ゲーじゃない。手間ひまかけないといいポケモンはゲットできないが、時間さえかければ強いポケモンをゲットできるわけでもない。深く考えずに適当にやっていると、膨大な時間を費やして集めたポケモンが、どうしょうもないゴミポケモンに育ってしまう。

 

ルールと状況がどんどん変化していくので、みな、今後のルールと状況の変化を予測しながらプレーしている。

たとえば、ある女の子は、スマホを2台持ってポケモンをしている。これは、今後、ポケモンのトレードが開始されることを読んでいるからだ。
いいポケモンは、出現頻度が少ない。そして、ある場所に出現すると、数分~十数分間だけ存在し、消えてしまう。そのポケモンは、誰か一人が捕獲しても、他の人のスマホから消えてしまうということはない。全員のスマホに出現する。だから、いいポケモンが出現したら、二刀流で捕獲すれば、2倍捕獲できることになる。
二刀流にする理由はそれだけではない。ある場所に出現したポケモンは、そこに存在する全てのスマホに出現するが、それらは完全に同一の才能を持ったポケモンではない。同じ種族のポケモンではあるが、CP(戦闘力)、個体値、技が違う。スマホを2台持つことで、どちらか片方が、これらのパラメータの高いポケモンになる確率がぐっと高くなる。
CPは後から増強することが可能だが、個体値は生まれ持っての才能のようなもので、後から何をやっても、改良することができない。
さらに、ポケモンは進化させることで飛躍的に強くなるが、進化した後、どんな技を持つ個体になるかは、予測ができない。最高の種族に属し、最高のCP(戦闘力)と最高の個体値を持った個体を進化させてみたら、どうしょうもないゴミ技しか持たないポケモンになってしまうこともある。ゴミになってしまったら、もう二度と治らない。もう一度捕獲からやり直しだ。
しかも、進化には、ポケモンのアメが大量に必要だ。ポケモンのアメは進化系統ごとに異なり、互換性がない。ミニリュウのアメは、ミニリュウの進化系統にしか使えない。1匹のミニリュウを捕獲すると3個のアメがゲットできるが、ミニリュウをハクリュウに進化させるには25個のアメが必要で、ハクリュウをカイリュウに進化させるには100個のアメが必要だ。ミニリュウは1つのアメと交換できるので、ミニリュウ1匹捕まえると、4個のアメをゲットできることになる。だから、ミニリュウを集めて進化させてカイリュウにするには、32匹のミニリュウを捕獲しなければならない。しかも、そこから更に、たくさんのアメを使って、カイリュウを強化していかなければならない。いいポケモンを育てるには、めったに出会わないポケモンをそれだけ大量に捕獲しなければならないのだ。
だから、いい種族のポケモンに出会うという幸運に恵まれたら、ここぞとばかり、可能な限り多くのスマホで、そのポケモンを捕獲しまくるというのは、バカバカしいようで、意外と合理的な戦術の可能性がある。


運営側によって、技の強さなどのパラメータが変動するリスクをマネージメントすることも、ポケモン育成の駆け引きを高度なものにしている。
たとえば、以下のような会話がある:
「この技が強力だから、この技を持ったポケモンを育てよう」→「今までの運営側の対応の経緯から見て、この技は強すぎるので、今後は運営によって下方修正されるリスクがけっこうある。それよりも、この場合は個体値優先で育てた方がいいんじゃないの?」
「このポケモン、個体値は最高なんだけど、弱い種族に属しているから、持ってても意味ないよね」→「いやいや、将来的に、運用側によって種族の強さが変更される可能性もあるから、個体値が高ければ、念のためキープしておいた方がいいよ」
「個体値って、どこを見れば分かるの?」→「ゲーム内を見てもわからない。チェックするツールをネットで探してチェックする」→「このツール、面倒くさい」→「個体値を簡単にチェックするツールを見つけたよ」→「それ、便利だけど、公式に認められているツールじゃないし、使っていることが運営にバレる仕様になってるし、それを使っていると、アカウントをバンされるリスクがあるよ」→「それでバンされた人はいないよ」→「今のところはね。今後はどうかわからない」→「利便性と、そのリスクの大きさを天秤にかけて、どちらをとるかだな」


ポケモンの巣の流動性もゲームを高度化させている要因の一つだ。
初期は、いいポケモンが高密度かつ高頻度で出現するポケモンの巣があったが、現在のポケモンの巣は大幅に劣化し、いいポケモンの出現頻度も密度も、大幅に低下した。
今後は、さらにポケモンの巣が劣化していく可能性がある。
ということは、初期にいいポケモンの巣で、いいポケモンをゲットしまくった人たちは圧倒的に有利で、ポケモンの巣が劣化してから行動し始めたプレーヤーとの格差は、なかなか縮まらないことになる。
なので、ポケモンの巣の劣化リスクをいち早く予測して、迅速に行動できた先見の明のあるプレーヤーが、現在、圧倒的にすぐれたポケモンを保有している状態になっている。
さらに、ポケモンの巣の劣化を予測して、そのままポケモンの巣に突撃したプレーヤーが、虫刺されと日焼けと電池切れで、ほうほうの体で退却してきたという話がある一方で、これらを予測して、はじめから日焼け止めと虫除けスプレーと大容量電池を装備して準備万端でポケモンの巣へ侵攻したプレーヤーは、大量に捕獲された超豪華ポケモンのスクショをLINEグループに流していた。
物理的な装備品の先読みもまた要求されるゲームなのだ。


さらに、最高のポケモンを1つ手に入れれば、それでゴールという単純なゲームではない。
ポケモンはジャンケンポンの関係にあり、あるポケモンに対して強くても、別のポケモンに対しては弱いという関係が、複雑に絡み合っている。
しかも、そのジャンケン関係は、ポケモンの種族だけでは決まらない。技の種類にもよる。1つのポケモンは、2つの技を持つから、非常に複雑なジャンケンネットワークが形成されている。
さらに、バトルは一人のプレーヤーが最大6匹のポケモンを出して行う。1匹だけ強くても勝てない。
バトルはジムと呼ばれる場所で行う。ジムにはポケモンが1~10匹配置されている。このジムに対して、ユーザは一人で6匹のポケモンをぶつける。ただし、ジム攻略には、ある程度の後出しジャンケンが可能だ。ジムに配置されているポケモンに対して有利になる順番にポケモンを並べてぶつけることができる。
だから、強いポケモンを6匹手に入れられればそれで終わりということにはならない。その6匹が、たまたまジムに配置されているポケモンに対して不利なポケモンばかりだったら、勝てないからだ。ジムにどんなポケモンが配置されていようとも対応できるように、さまざまなバリエーションの強いポケモンを揃えていく必要がある。
しかも、種族と技の世間相場が、その普及状況によって変動する。種族Aのポケモンが大量に出回れば、そのポケモンに対して有利な種族Bのポケモンの価値が上がる。また、種族Aに対して有効な技Xの価値も高まる。これによって種族Bと技Xが増えてきたら、今度は、種族Bと技Xに対して有利な種族と技を持つポケモンの価値が高まるのだ。


話はまだまだ沢山あるが、書くのに飽きてきたのでこの辺で終わりにしておく。
もちろん、ポケモンgoにはいろんな楽しみ方があるから、これだけがポケモンgoの遊び方ではないし、他人様の遊び方にとやかく言うつもりはない。

私自身も、ゲームとしてのポケモンgoというより、ポケモンgoという社会現象の渦の中で、時代の空気に浸って楽しむことを主な目的としてプレーしている。
ポケモンgoというのは単なるゲームではなく、時々刻々と変転していく一期一会の社会現象であって、後から参加しても、「始まったばかりのころのポケモンgo」はもう永遠にプレーすることはできない。
たとえば、ミニリュウが出現すると、周囲の人間が一斉に走りだすのは、なんだかバカバカしくて、すごい笑える。真夏の炎天下の中、これだけ大勢の見知らぬ人間たちが集まって、目に見えぬモンスターを捕獲するためにダッシュするという光景って、ええじゃないか運動や安保闘争のような、人類史的な出来事なんじゃないだろうか。ルールや状況が変化すると、こういう光景はもうなくなってしまう可能性がある。いつか歴史の生き証人として、未来の子どもたちに語って聞かせたいような珍事件だ。

この、二度と再び味わうことができないかもしれない社会現象の面白さを、少しでも多くの人に感じてもらえたら、と思って書いてみました。

 

個人も企業も現金を貯め込んだほうが、より多くの人々が幸せになる社会になる

すべての労働者が、5年分の生活費相当の貯金を持っていれば、ブラック企業に勤めている人は今すぐ辞めて、たっぷり時間をかけて転職活動し、ずっとマシな企業に転職できるだろう。
ブラック企業は人手不足で企業活動が縮小して市場シェアを減らし、その分だけホワイト企業はシェアを伸ばし、より多くの社員を雇えるだろう。
社会全体は、より白に近いグレーになるはずだ。

これは企業も同様。
十分な貯金さえあれば、ブラックな顧客を切って、優良顧客だけを相手に商売できるようになる。
ブラックな顧客を相手にする企業はなくなり、ブラックな顧客は、法外な料金を支払わないと、サービスを受けられなくなるだろう。
これによって、ブラックな顧客は減り、社会全体は、より白に近いグレーになる。

つまり、個人も企業も、十分な現金を溜め込めば、
ブラック企業もブラック顧客も淘汰され、
世界はより良いところになるはずだ。

そんなことをすればデフレになるって?
いやいや、必ずしもそうはならないんだ。

企業や個人が現金を貯めこむとデフレになるのは、
貯めこまれた分だけ、市場の通貨供給量が減ってしまうからだ。
だったら、企業や個人が現金を貯めこんだ分だけ日銀が通貨供給量を増やせばいい。
その分だけ日銀がお札を刷って、市場に供給すればいい。
そうすれば、通貨供給量はプラマイ0になり、デフレーションは起きない。

デフレーションは、通貨供給量だけでは決まらないって?
そのとおり。
デフレは単なる通貨供給量だけでは決まらない。
デフレは「デフレ期待」によって引き起こされる。
だから、マッチョで強面の日銀総裁が通貨供給量を増やしまくる姿勢を見せつけて、インフレ期待を煽ればいい。日銀砲の巨大な銃口を突き付けて、

「『デフレになるだろう』と期待して行動すると、あとで心底後悔することになるぞ」

と脅しつけ、震え上がらせればいい。予期せぬタイミングでいきなり日銀砲をぶっ放し、みなをチビらせてやれ。みなをとことんビビらせて骨抜きにして、インフレ側に賭けさせるのだ。

それによって、デフレ期待を相殺すればいい。

日銀が、貯めこまれた現金より多い現金を市場に供給すれば、インフレになる。
日銀総裁が、貯蓄性向の高まりを凌駕するだけのインフレ期待を作り出せば、インフレになる。

「インフレになれば、人も企業もお金を使うようになる」と言っている人がいるが、まずそんなことにはならないだろう。
過去のインフレ率と銀行預金の利率を比べた場合、中長期的には、インフレ率よりも預金の利率が上回っているし、短期的には銀行預金の利率がインフレ率を下回ることもあるが、その間は人々は日本円以外の流動性資産として資産を保有するだけだ。いつでもすぐに現金化できる資産であれば、必ずしも日本円の現金で保有している必要性はないのだから。

結局、インフレになったとしても、「個人も企業も、現金(流動性資産)を貯めこんだ方が得」という状態に変わりはない。

 

いくら日銀が通貨供給量を増やしても、企業も人も金を使わなければ、経済は回らない?

そのとおり。
これに対しては、いくつかの解決策がある。

一つ目。時間が解決する。
たしかに、「現金は貯めれば貯めるほど得」というのは、誰にとっても変わらない。
しかし、「どれだけ得になるか?」、すなわち「貯めることの効用」は、現金を貯めれば貯めるほど、減っていく。効用は逓減する。
一方で、「現金を使うことによる効用」は、現金をいくら貯めても減ってゆかない。
ということは、一定以上現金が貯まれば、「それ以上は、現金を貯めこむより使ったほうが得」という状態に達する。
そうなれば、ごく普通に経済全体の総需要は回復していく。
そして、総需要回復後の経済は、以前の経済よりも、はるかにホワイトで、最大多数の最大幸福を実現する、優しい経済になっているはずだ。

二つ目。外需。
世界には、物が欲しくて欲しくてしょうがない人々が何十億人もいる。
そういう人たちにお金を使ってもらえば良い。
お金をあまり使わないたかだか1億人ちょっとの人口を相手にするよりも、お金を活発に使う数十億人を相手に商売したほうが、よっぽど経済は回る。

3つ目。財政政策。
個人と企業が現金を貯め込めば、その分だけ、政府は財政政策をする余裕が生まれる。
政府が財政政策を行うには、国債の発行を増やさないといけない。
国債が増えすぎると、国は国債の利払いだけで疲弊してしまうことになるが、日銀が国債を買いまくれば、そうはならない。
日銀が保有する国債の利子は、日銀の収入になる。その収入は、そのまま政府のものになる。
もちろん、過剰なインフレになったら、日銀は国債を売却して市場から通貨を回収しなければならなくなる。しかし、そもそも企業と個人が現金を貯めこんだ分だけ国債を買っているのであれば、通貨供給量はバランスし、そもそもそこまで過剰なインフレにはならない。
こうして、企業と個人が現金を貯めこんだ分だけ政府が財政出動しても、巡り巡って、ちゃんとバランスするようになっている。
そして、個人と企業が現金を貯めこんだことによる需要減は、政府の財政出動で相殺され、バランスすることになる。


ほんとうに人々を幸せにする政策をとことん考えぬいて出された思慮深い結論が、「経済を循環させるために、個人や企業に貯金させないようにする」だとは、とうてい思えない。
なぜなら、十分な貯金は、人が健康的で文化的な暮らしをするのに不可欠だし、企業が健康的で文化的な職場を維持するのにも不可欠だからだ。
経済を循環させるために、個人や企業に貯金させないようにすれば、貯金を失った人はブラック企業から抜け出せなくなり、貯金を失った企業はブラック顧客からの注文を断れなくなる。そして、ブラックな生活と職場が社会に蔓延する。
こんな社会を誰が望むというのだろうか?

もちろん、これは難しい問題であり、そう簡単に解決できる問題ではない。
だから、必然的に、この記事で提示されたロジックも穴だらけであり、そんな簡単には解決しない。するわけがない。
ただ、難しい問題には常に簡単な、しかし間違った答が存在する。
「経済を循環させるために、個人や企業に貯金させないようにする」という「簡単な答え」に脊椎反射的に飛びつく前に、もう少し、考えるべきことがあるのではないかと思う。

儲かったら社員に分配するより貯めこんだほうが企業はうまくいく

たっぷり現金があれば、イヤな客からのクソ案件を断ることができる。
しばらく収入がなくなったとしても、優良顧客からの美味しい案件が入るまで、貯金で食いつなぎながら待てばいい。
現金持ちの企業が断ったクソ案件は、現金のない企業が苦しみながらこなすことになる。

思わぬチャンスが訪れたとき、現金がなければ、そこに優秀な人材をアサインすることができない。
ろくに現金のない企業は日銭を稼がないと潰れてしまうから、優秀な人材を、日銭を稼ぐための案件に投入してしまう。未来を切り拓く案件に優秀な人材を投入できないのだ。

不運に備えるには大量の現金が必要だし、
幸運に備えるにも大量の現金が必要だ。

不確実性の時代には、不運と幸運の両方の量が多くなる。
だからより多くの現金を保有した企業が有利になる。

世界の不確実性はどんどん増してゆき、未来はますます予測が難しくなっている。
リーマン・ショックを、誰が予測できただろうか?
スマホの急速な普及を、誰が予測できたろうか?
中国バブルがいつ崩壊するのか、誰が予測できるだろうか?そもそもあれはバブルなのかどうか、誰に区別がつくというのか?

より不確実な時代には、よりたくさんの現金を、企業は貯めこまなければならない。

企業が現金を溜め込むから景気が悪くなる?
そうかもしれない。
しかし、ゲームのルールが変わったのだ。
「現金を貯めこむ企業の方が有利になる」というルールになったのだから、
現金を貯めこまない企業はどんどん不利になるだけだ。

 

もっと正確に言うと、ゲームのルールが元に戻ったのだ。たまたま不確実性の低い時代が続いていたが、そんな安定した時代は、人類史においてはむしろレアだ。そのレアな時代が終わり、また元の不確実性の高い世界に戻ったのだ。


企業は、社会全体の景気を良くするために、自社の未来を捨てて、貯めこんだ現金を吐き出さなければならないのだろうか?
日銭を稼ぐのに精一杯のクソ会社に転落しなければならないのだろうか?


儲かった金を労働者に分配せずに溜め込んでしまう企業は、
社員の士気が上がらないし、優秀な人材も集まらないからうまくいかない?
もちろん、儲かっているのに、市場価格よりもはるかに低い賃金しか払わない企業はうまくいかないだろう。
しかし実際には、一部の優秀な人材にだけは多めに払った方がいいだろうが、
それ以外の人材の賃金は、市場価格にやや色をつける程度に抑えておいた方がいい。
それ以外の利益分は、会社に貯めこんでおいた方が、結局は明日に繋がる。
たまたま今儲かっているからといって、宵越しの銭は持たない江戸っ子のように、気前よく社員に分配してしまうような会社に未来はない。明日はどんな嵐になるとも分からない時代だというのに。


現金で貯めこむより、どんどん投資した企業の方がうまくいく?
かつて未来が予測しやすい時代はそうだったかも知れない。
現金を貯めこむより、現金を効率よく投資して利益を生み出す企業の方が、優良企業とされた時代があった。
しかしながら、時代は変わり、ゲームのルールが変わったのだ。
状況が変われば投資は無駄になりやすい。
現金のほうが、はるかに状況変化に強い。
もちろん投資も引き続き重要だが、かつてよりも現金の重要性がはるかに上がっている。
現金預金と投資の最適比率が変わったのだ。
投資を減らし、現金を増やさないと、今の時代、そして、次の時代に適応できない。

 

じゃあ、法律を変えて、企業が現金を貯めこむことに課税するようにすればいい?

日本だけそんな法律を作れば、日本経済の衰退に拍車がかかるだろう。

 

ほんとうに、企業が現金を貯めこむこと自体が、非難されるべきことなのだろうか?
それによって景気に悪影響があるとしても、それは国の金融・財政政策で対処すべきものであって、「企業に現金を貯めこむな」というのはスジ違いなのではないだろうか。
それによって労働者の平均賃金が下がるとしても、それは国が福祉の充実など別の手段で対処すべきものであって、「企業に現金を貯めこむな」というのはスジ違いなのではないだろうか。
それによって投資が減るとしても、その分、企業は幸運と不運に対する対応力が上がるのだ。


結局南極、誰がどんな主張をしようが、
幸運と不運の総量が増大する不確実性の時代は、
企業だろうが、個人だろうが、十分な現金を貯めこんだプレーヤーが圧倒的に有利になる。
そういうルールのゲームになってしまっているのだ。

 

今までの人生で、仕事でも生活でも、役立った本の圧倒的No.1は哲学の本だった

哲学は、「役に立つこと」を目的としない学問だ。
「世の中を良くするかどうか?」「人を幸せにするかどうか?」「文化を豊かにするか?」「仕事に役立つかどうか?」「生活に役立つかどうか?」と、哲学的な価値は、一切関係がない。
たとえ世の中を悪くするような哲学であっても、人を不幸にする哲学であっても、社会的に有害であっても、哲学的に優れていることは、いくらでもありうる。
ましてや、人格的に優れていることが哲学者の条件であるかのように言うのは、噴飯物だ。哲学者とは、世間的な意味で尊敬できる人間のことでは、決してない。

にもかかわらず、実際問題として、仕事においても、生活においても、人生のあらゆる場面を総合して、役に立った本の圧倒的No.1は、哲学の本だった。

 


(1)哲学は金儲けにものすごく役立つ。

金儲けをするには、自分一人であくせく働くのは効率が悪い。金儲けには、チームプレーが欠かせない。

ただし、どんな人間でもチームに引き入れればいいというものではない。やはり、優秀な人をチームに入れたほうが、はるかに効率よく稼げる。

しかし、そう簡単に優秀な人間はチームに入ってもらえない。
優秀な人間は引く手あまただからだ。たくさんの面白そうな会社がその人間にオファーをしている。

そういう中を勝ち抜いて、優秀な人間を口説き落とし、自社に来てもらう必要がある。
この「口説き落とし」に、哲学は、ものすごいパワーを発揮する。
ビジネス、企画、マーケティング、エンジニアリング、広報、経営等のさまざまな課題を、哲学特有の思考パターンで切り込み、捉え直してみせると、優秀な人間の多くは、驚くほど食いついてくる。

世の中のほとんどの人間は、哲学特有の思考パターンに免疫がない。哲学童貞だ。
仕事能力の非常に高い人間であっても、これは同じだ。
知力の高い人間ほど、ビジネス課題の哲学による捉え直しに対する感受性が強く、ぐいぐい引き込まれる傾向にある。
女体に好奇心旺盛な童貞中学生のように、興味津々になるのだ。

また、ビジネスを成功させるには、社員の士気を高めることが欠かせない。
哲学特有の思考パターンを使って「なぜ、その仕事をやるのか?」を紐解いて見せると、社員の士気はどんどん上がっていく。哲学に免疫のない哲学童貞たちは、なにかものすごく深遠な真実に触れたような気分になるからだ。自分のやっている仕事に、こんなにも深い意味があったのだと、感じいるのだ。
しかし実際は、これは単なる思考の錯覚だ。猛烈に頭の悪そうな同僚だって、何も考えてなさそうな幼児だって、カップメンだって、そのへんの石っころだって、トイレットペーパーだって、世の中の大抵のものは、まともに考え抜けば、ものすごく深い。その深さに気づかずにほとんどの人は日々生活しているというだけのことであり、深いのは、自分の担当している仕事に限った話じゃない。
人間は「その仕事にどんな意味があるのか?」が分からないと、モチベーションが上がらない生き物だ。そして、何事につけ、「それにどんな意味があるのか?」をこれ以上ないほど深く追求するのは、哲学にとっては、朝飯前すぎる。それを「哲学」という言葉で呼ぶことすら、不適切なほどに。

また、社員全員のベクトルを揃えてまとめ上げるのにはビジョンが効果的だが、このビジョンを作るのにも、哲学は大きな威力を発揮する。
ほとんどの人間は哲学的思考に免疫がないので、呆れるほど初歩的な哲学的思考を、ほんのスパイスとして使うだけで、ビジョンが社員を惹きつけ、まとめ上げるる力が一気に増す。

 


(2)哲学は、人生のROI(生産性)を最大化するのに、ものすごく役に立つ。

「生産性をあげる」というのは、コストあたりの価値生産量を最大化することだ。
たいして価値の無いもののためにたくさんのコスト(=時間とお金)を使い、人生を浪費してしまうと、人生はどんどん貧しくなっていく。
「気がついたら、ずいぶんと無駄なことをしてたくさんの時間を過ごしてしまった」という経験はないだろうか?
その大きな原因の一つは、何に価値があり、何に価値がないのかを、十分に考えぬいていなかったからではないだろうか?
そして、何に価値があり、何に価値がないのかを見極めるのに、哲学はものすごく役に立つ。
「そもそも『価値』とは何か?」「そもそも『意味』とは何か?」「【そもそも『価値』とは何か?】と問うことに意味はあるか?あるとすればどのような意味があるのか?なぜ、私はそれを問おうと思うのか?」などと問うことから始める。ここから思考を積み上げていって、今、自分がやっていることの意味と価値、これからやろうとすることの意味と価値に、日々、思いを巡らせながら生きる。そうすることで、人生の豊かさを深く感じ取ることができる。自分にとって、意味のないもの、価値の無いものに使う時間を減らすことができる。自分にとって、意味の有ることにだけ時間を使うことができる。
むしろ、哲学抜きに、人生のコストパフォーマンスやROIをどうやって上げればいいのかがよく分からないほどだ。
広告のROIマネージメントには計測が必須だ。その広告にどのような効果があるのか計測できないまま広告を出稿すると、結果として効果の無い広告に大量のお金を払うことになってしまいがちだ。
人生において、自分がRだと思っているものがほんとにRなのかを徹底的に考えぬかずに、どうやって人生のROIを上げればいいのだろうか?


(3)哲学は、それ自体が、個人にとって100億円分以上の価値になりうる。

多くのものごとの、人生における価値は、金額換算できる。
「一生インターネットを使えなくなるが、十億円もらえる」
という取引があったら、あなたは応じるだろうか?
それに応じないという人がいたとすると、その人間にとって、インターネットは十億円以上の価値があるということだ。

インターネットをろくに使ったことがない人は、インターネットなどより十億円の方を選ぶだろうが、インターネットの豊かさにどっぷり浸かって生きている人の中には、インターネットの方を選ぶ人も多いのではないだろうか。

同様に、「今までに哲学の本や議論から得た知識・知恵をあなたの中からすべて消し去り、かつ、一生哲学の知識には触れることができなくなるが、その対価として100億円もらえる」という取引があったら、あなたは応じるだろうか?

私は応じない。
たとえ100億円もらって贅沢三昧の一生を送れたとしても、哲学のない人生の、なんと浅く、なんとつまらないことか。そう感じてしまう。

これも、インターネットの場合と同じで、哲学をほとんど人生に取り入れてない人は100億円の方を選ぶだろうが、哲学がもたらす豊かさにどっぷり浸かって生きている人にとっては、その豊かさが100億円を凌駕することは、珍しくないだろう。

「哲学というのは一種の病気であり、そんなものがなくても普通の人は十分に幸せになれる」という意見があるのは知っている。
しかし、私の幼少時からの疑問 --- 『私』とは何なのか? 『世界』とは何なのか? 『意味』とは何なのか?『価値』とは何なのか? 『正義』とは何なのか?『美しい』とはどういうことなのか?『存在』とは何なのか? 『時間』とは何なのか? それらの疑問に、ほんとうの意味で真正面から答えようとしてくれたのは、哲学だけだった。一生にわたってこれらの疑問とともに生き続けるというのが病気であるというのなら、私は病気なのだろう。しかし、これを病気だと定義して思考停止してしまうのが『健全』な思考と言えるのだろうか?
実際、多くの人間は、自分の仕事に『意味』を見いだせるかどうかで、その仕事の楽しさが大きく違ってくる。そして、仕事の楽しさは、人生の豊かさを大きく左右する。
『意味』とは何かをきちんと考えぬいた方が、はるかに自分の仕事に意味を見出しやすくなることを思えば、むしろ「『意味』とは何か?」というところから問うのは、『病気』というよりもむしろ、『健全』なのではあるまいか?

 


役に立つことが哲学の目的ではないし、それを目的にしたら、もはやそれは哲学ではない。
真実が不道徳であるとき、その真実を指摘しないのが人格者で、指摘するのが哲学者だ。
だから、人格者の言葉は社会の役に立つが、哲学者の言葉は社会の役に立たないことが多い。
しかし、だからこそ、人格者の言葉は信用ならないし、哲学者の言葉のほうが信用できる。
ここには、社会と個人の利害対立の構図が潜んでいる。
それが不道徳であるかどうかに関係なく、人は「ほんとうのところは、どうなのか?」を知りたがるものだ。しかし、社会を維持するためには、不道徳な真実は隠蔽されなければならない。人格者とは、この隠蔽工作に加担する嘘つきどものことだ。
結果として哲学が役立つのは、「ほんとうのところは、どうなのか?」を人々にこっそり耳打ちすることで、その人間を味方に引き入れることができるからだ。それは、耳打ちされた個人にとっては「役に立つ」が、社会全体にとっては「役に立つ」とは限らない。

このような形で哲学は『役に立つ』が、それは哲学者たちの感知するところではない。それが人類に災厄をもたらすか、それとも健やかなる未来社会の建設に資するか、そんなことは、哲学者たちにとっては雑念でしかない。そんなことを気にして掘り下げられた哲学は、もはや哲学ではない。

我々はただ、哲学と、そういうものとして、向き合うだけだ。

私は「支持政党なし」党に投票します

2013年に結党された政治団体「支持政党なし」をご存知だろうか。

この政党は、一切の政策を持たない。

この政党の党員が法案ごとにWebで投票し、この政党の議員は、その結果の通りに国会で投票する。

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これは、直接民主制のようにも見えるが、別物だと思う。
この政党は、政権を取ろうとは思っていないからだ。
あくまでキャスティングボートを握ることを目標にしているのだ。
与党連合も野党連合も過半数割れし、この政党がキャスティングボートを握った状態こそが、この政党の目指すところだ。

「愚かな民衆が直接法案の是非を決めると誤った判断をしてしまう。だから、賢い判断のできるエリートに判断を委託する間接民主制の方が、直接民主制よりも優れている」という主張にも、たしかに一理はある。しかしながら、間接民主制にも弊害はある。直接民主制と間接民主制のいいとこ取りをしたような中間的な落とし所を模索してみる価値はないだろうか。現在の間接民主制の弊害を一部なりとも緩和するための装置の一つとして、支持政党なし党のようなコンセプトの党が機能しうる可能性はないだろうか。

もちろん、この政党名は卑怯だし、この政党の代表はいかにも胡散臭く信用ならない人物だし、公約がまともに実行されるかどうかはなはだ怪しいし、実際にはこの政党のビジョンが実現する可能性は低いだろうが、それでも、他の政党に入れるよりはマシだと感じる。

私はウヨクとサヨクとバカとネゴトとオダイモクが大嫌いなので、自民、公明、民進、共産、どの政党のホームページを読んでも、心底うんざりする。

もちろん「支持政党なし」のホームページも突っ込みどころ満載だが、他のどうしょうもないクソ政党どもに比べると、ウンザリ度はいくぶんマシなのだ。

http://xn--68jubz91pp0oypc1c.com/

もちろん、この政党自体が上手くいくとは思っていないが、目指す方向性自体は、これはこれでアリかと思う。
この政党がそれなりの得票数を得ることで、他のもっとまともな人達が、こういうニーズもあることを認識し、いつの日か、同じようなコンセプトで、もっとまともな政党を作ってくれる可能性に賭けたい。

そういう未来への布石として、私は今回、この政党に一票を入れる。

 

人生は運よりも、運の運用方法に大きく左右される

高所得者が「オレは運が良かっただけ」と言うのはポジショントークであることが多いので、鵜呑みにしない方がいい。
彼らは、ある意味、イカサマ賭博をやっている。
このイカサマの正体を暴いてみる。

冷静に分析すると、私の知り合いの高所得者たちは、以下の様な特徴が多い。

・人よりも多くのことを試す。
・上手く行かなかった時に損切りするのが素早い。
・「たまたま」上手く行ったら、その幸運を全力の全力で最大限利用して、スキル、実績、人脈、資産を得る。
・一度スキル、実績、人脈、資産を得たら、それらを最大限に利用して、さらなるスキルと実績と人脈と資産を作り、それらが雪だるま式に増えていく。
・運任せの大博打はしない。確実性の高い勝算のあるときだけ大きく賭ける。
・人よりも多くの不運を想定し、不運を事前に回避するための手を人よりも念入りに打っている。
・不運に見舞われたときのダメージを最小限にするための保険やバッファ(貯金、人脈)の確保を、人よりも念入りにやっている。

ちょっとまってくれ。「よかった」のはほんとに「運」なのか?

だって、あんたが幸運に遭遇したのは、その幸運に遭遇するための行動を人より多くやっていたからじゃん。
あんたと同じ幸運に恵まれながら、その幸運を活かせなかった人の方が圧倒的に多いじゃん。
あんたが不運に見舞われなかったのは、事前に不運の回避策を打ちまくっていたからじゃん。
あんたが不運に見舞われても最小限のダメージで済んだのは、あんたがダメージを最小化するための貯金や人脈を事前に用意しまくっていたからじゃん。

サイコロを振り続けると、それぞれの目が出る割合が1/6に収束していくように、幸運と不運に遭遇する確率も、中長期的に見たら、人によってそれほど大きな違いはなくなっていく。

なのに、なんで、彼らだけサイコロ賭博に勝ち続けるのか?
それは、以下のようなイカサマをやってるからだ。

・あらかじめ悪い目が出にくいように、自分のサイコロに細工しておく。(リスク回避)
・悪い目が出た時の支払額が自分だけ少なくなるルールにしておく。(保険)
・いい目が出てから、後出しジャンケンで掛け金を何倍にもする。(幸運に遭遇した時に全力の全力を出す)
・悪い目が出てから、後出しジャンケンで掛け金を減らす。(上手く行かなければ、素早く損切りする)
・サイコロをたくさん振る。(人よりも多くを試す)
・掛け金を雪だるま式に増やしていく。


一方、「あいつらは運がよかっただけ、オレは運が悪かっただけ」と言う人の多くは、サイコロにも支払いルールにもろくに細工せずにサイコロ賭博をやっている。

いや、ちょっとまってくれ。
どう見ても、あんたが負けたのは、「サイコロの目がたまたま悪かった」からじゃないだろ。
あんたは、負けるべくして負けたんだよ。
そこに気づけ。
そこに気が付かないと、いつまでたっても負け続けの人生だぜ。

これは、単に所得の大小に限った話じゃない。
人間の才能も運も正規分布する。つまり大多数の人間は、才能も、幸運と不運の総量も、平均付近であり、大差はないということだ。
にもかかわらず、結果は正規分布というよりべき分布の要素が強くなる。つまり、大差がつく。「運の利回り」の差が複利で効いてくるから、差は指数関数的に開いていく。
もちろん、親の所得格差もその大きな原因の一つではあるだろうが、そればかりに注目しすぎて、肝心なことを見落としてないだろうか。
見落としているのは、この「大差」の大きな原因の一つが、「運」というより、「運との向き合い方」であり、「運の利用戦略」であり、「運の利用効率」であり、「運の利回り」だということだ。

もちろん、成功者たちが「運よりも、運の利用戦略が人生を大きく左右する」ということを知っていたということ自体が決定的な幸運であり、その幸運に恵まれた人間だけが成功した、という意味で、全ては「運だけ」で説明できる。

そして、あなたは今、その「決定的な幸運」に遭遇した。
この幸運を最大限活かしきれるかどうかは、あなた次第だ。

 

経営者に正当な賃金を支払わせたいなら、

正当な賃金を支払う会社に転職しましょう。

正当な賃金を支払う会社がどこにあるのかって?

それは、正当な賃金を受け取っている労働者が知っています。
インターネットで聞けばいいじゃないですか。

正当な賃金を支払う会社に転職しようとしたけど、面接で落とされた?

たまたま相性が悪かったんです。どんどん次を探しましょう。

正当な賃金を支払う会社に応募しても、自分は採用される気がしない?

気のせいである可能性がけっこうあります。
まずは、20社ぐらい応募してみましょう。
話はそれからです。

冷静に考えて、正当な賃金を支払う会社が自分を雇うとは思えない?
...あなたの言う「正当な賃金」の定義はなんでしょうか?

多くの経営者は、
「500万円払うだけの価値がある仕事」をしてくれる労働者に500万円払うのが「正当な賃金」の支払いだと考えています。

もし、あなたの言う「正当な賃金」の定義が、
「自分が人間らしい生活を営むために必要な賃金」というものであるなら、
会社側との話はいつまでも平行線で、交渉はまとまりません。

その場合、あなたが交渉すべき相手は、会社ではなく、社会であり国家でしょう。
不当に低いのは、賃金ではなく、生活費でしょう。
足りない分は、会社が支払うべきものではなく、負の所得税などの
福祉で支払われるべきものなのではないでしょうか。

もしくは、法律や行政による最低賃金の引き上げで対処するべきものでしょう。

経営者にかぎらず、多くの人間は、「割に合う」取引にしか応じません。
あなたを「正当な賃金」で雇うことが割に合うと考える経営者がいないなら、
あなたに転職先が見つからないことは不思議ではありません。

いくら転職活動をしても「正当な賃金」を支払う会社が見つからない場合、
経営者を非難しても問題は解決されません。
それは本質的には、経営者ではなく、行政や法律の問題なのですから。